迎英里子(b.1990)は2014年頃から消化器官の仕組み、花が開花する構造、水蒸気の循環、屠畜、石油の採掘、国債の仕組みなど、何らかのシステムを模した構造物を制作してきた。発表毎に「実践」と称したパフォーマンスが行われ、作者自身が事前に決められた振り付けを実行することで、システムを実際に作動させる。この様子は映像記録され、展示会場で公開される。一連の試みは《アプローチ》と呼ばれ、作品の主題によって分類されナンバリングされている。

 これらの試みを教科書に載っている図説のようなものとして捉えてしまうと、迎の探求の射程を取り逃がすことになる。迎の構造物とパフォーマンスは瞬間的に一望できる図説とは異なり、何を意味しているのか一見しただけでは分からないことが多く、観客はパフォーマンスを見る中で徐々にそれが何を示しているのか推測できるようになるからだ。迎が重視しているのは鑑賞経験の中で見立てが立ち上がっていく、その動的な過程なのである。一連の試みに「approach=学問、研究対象などに接近すること」という、対象を知ることと、目的に近づいていくことが比喩的に重なり合う語が冠されていることからもその態度を理解することができる。一連の試みは迎による作品制作を通した対象への《アプローチ》であると同時に、観客が迎の構造物とパフォーマンスを手掛かりに対象に接近していくという意味での《アプローチ》でもあるのだ。

アプローチ 【approach】(三省堂大辞林より)
( 名 ) スル
①ある目的のために人に近づくこと。親しくなろうとすること。
②学問・研究などの、対象に接近すること。また、接近のしかた。研究法。 「歴史的な観点から-する」
③道路・門から建物・玄関口までの通路または導入室間。
④ゴルフで、グリーン上のホールをめがけて打つ寄せ打ち。アプローチ-ショット。
⑤スキーのジャンプ競技や陸上競技の走り幅跳びで、スタートから踏み切るまでの間。
⑥登山で、目的の山の山域に至るまでの行程。 「 -が長い」

観客による対象へのアプローチ。迎はさまざまな方法で観客のための足場を用意する。例えば《アプローチ0》では牛の屠畜における一連の行為を、動詞の形(掴む、切る、置く..)で書き出していく。迎は構造物に対してそれらの行為を順に行っていくことで、屠畜という行為の身体的な側面を強調し、観客の理解を促す(※1)。国債の仕組みを扱った《アプローチ5.0》において、迎はお金に見立てた大豆について、パチンコ玉同士がぶつかる音や鳥の餌さりを喚起させる大豆を使うことによって身体的なトレースが可能になると述べている。国債と同じく貨幣との交換が可能なパチンコや、複数の相手に対する分配を行う鳥への餌やりへの連想を挿入することで、観客の直感的な重ね合わせを促している。大陸間の香辛料貿易を俯瞰した《アプローチ6.0》では、大陸間の香辛料や金銀の移動は船場にあるクレーンの縮尺模型のような機構によって行われる。大陸として大きな長方形の机が使われるような抽象度の荒い見立てと、具象度の高いクレーンの造形。さまざまな粗細の抽象度がひとつの空間に同居している。

このように迎はさまざまな抽象度、連想、身体感覚を横断しながら対象へ辿りつくことができるような場を作り出す(※2)。観客が対象を飛躍的に辿り着くこと、あるいは辿りつけずにただの物体としてしか認識できないままであること。どちらの可能性にも開かれた媒体的な場を作ることこそが、迎の制作なのである。

注:1 

佐伯胖は他者に「なってみる」ことで何かを理解する能力が無生物にまで応用できることを示している。「ある会合で某建築家と同席した際、その建築家が雑談の中で、「私は図面(注: 設計図のこと)を見ると、別に複雑な計算をしないでも、地震が来たらその建物のどこから壊れていくか、また、台風が来たとき、どこから吹き飛んでいくかが、手にとるようにわかりますね」と言われた。…(中略)…どうしてそのようなことができるかとたずねると、いとも簡単に、「要するに、自分がその図面通りの建物になってみればいいのですよ。建物になってみて、地震に対してふんばってみたり、台風に対して必死でこらえてみればいいのです。そうすると、こらえ切れなくなって壊れていくところが、文字通り”自分の体で”わかっちゃうんですね。」といわれたのである。」佐伯胖『イメージ化による知識と学習』(東洋館出版社)。また、メタファーの働きを人間の「ある出来事と別の出来事を重ね合わせる能力」として論じた鍋島弘治朗『身体性とメタファー』(ひつじ書房)から示唆を受けた。

注:2

IT技術の発達、急速なグローバリズムや激しい気象変動に象徴されるように、現代とは複雑で抽象的な現象と私的な出来事が交錯する時代である。私たちの手の届く範囲に広がる「環境」からその向こうに絡まり合う「世界」をいかに認識するのかという迎の問題意識は、こうした社会的な課題へと繋がりうる。