3人の作家が参加する印刷物の形態をした展覧会を企画した。印刷物は展覧会の設計図(ダイアグラム)と作家へのインタヴューと展覧会ステイトメントからできている。この印刷物は頒布される。

ステイトメント:

私たちが経験の連鎖を経てここにいることについて考えてみよう。展覧会「Slipping Out of the Circuit/回路を抜け出して」にはパラレルワールドのように複数の経験の分岐点が回路のように連鎖している。それらが映像の時間軸、機械の作動による時間軸も伴いながら行われる。この展覧会では3人のアーティスト、佐藤雅晴、鈴木光、久保ガエタンが参加する。佐藤雅晴の”ダテマキ”は、東日本大震災で被災したダテマキ工場を取材した7画面の映像作品だ。 実写映像をコンピュータ上の手作業でトレースし、世界を別の仕方で認識するかのようなアニメー ションを制作している。鈴木光の”Mr.S&Doraemon”は2部構成によってできている。前半部は自身の日記映画の巻き戻し、後半部はアニメ「ドラえもん」の背景シーンによって成り立つ。2部構成の狭間に、鈴木の日常の延長として3.11の経験の分岐点が位置付けられる。久保ガエタンの”Briareo” は巨大な風車の形態をした機械である。風力発電に関する陰謀説に基づいて作られたこの作品はon/offを繰り返しながら巨大な振動と音を発する。

タイムマシンはない。過去の分岐には戻れない。しかしそれでも私たちは常に別の可能性について考えてしまう。分岐は開いては閉じ、閉じては開く。運動し、決定しない。また、展覧会で作品を鑑賞する経験はその都度変わる。鑑賞者は今までの経験と作品とを照らし合わせ解釈を行うからであり、それは鑑賞者ごとに作品の見方が変わることを意味する。作品は鑑賞者の経験を反映する。そもそもそれがキュレーターによって作られた「展覧会の」経験なのか、展覧会を構成する各作家が作り出した「作品の」経験なのかは厳密に区別できない。この展覧会は作品が直接展示されることのない特殊な状況下での展覧会であるが、そうであるからこそこのような非決定性が強調される。この展覧会「Slipping Out of the Circuit」を分岐/キュレーションにおける性質の異なる2つの定まらなさによって成立させたい。